軍都大村の歴史
※昭和28年頃の海軍航空廠本部付近の写真
「第21海軍航空廠」が太平洋戦争時代、ここ大村に存在していた。
飛行機製作工場「第21海軍航空廠」
大正12年(1923年)、実戦に役立つ錬成を目的とした1km 四方の滑走路を持つ海軍航空隊が大村に誕生しました。
昭和16年(1941年)には、東洋一といわれた飛行機製作工場「第21海軍航空廠」が設置され、217万㎡という広大な土地に5万人が働いていたといわれています。
この工場では、主に零式水上観測機、流星、紫電改といった飛行機、エンジンの製作・修理を手がけていました。
このように大きな航空廠も昭和19年(1944年)の大空襲により甚大な被害を受けました。
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戦闘機「紫電改」
太平洋戦争時代に海軍航空隊で使われた戦闘機「紫電改」が制作・修理されていました。
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第21海軍航空廠本部防空壕跡(市指定史跡)
第21海軍航空廠の本部庁舎前にあった防空壕跡で、大村郵便局近くの大村市古賀島スポーツ広場横に現在も残されています。
住所:大村市古賀島町 -
掩体壕
飛行機の防空壕。下原口公園内に現在も残されています。
住所:大村市原口町 -
工員養成所正門
今は大村市立西大村中学校の裏門になっている工員養成所正門。
住所:大村市松並1丁目。 -
楠のある通り
海へ向かう道路の街路樹、沿道の楠は航空廠の開廠時に植えられたものが今も残っています。
場所:松並交差点付近~大村基地までの通り(県道38号長崎空港線) -
慰霊塔公園
昭和19年10月25日の大空襲による犠牲者を祀っています。
そのとき空爆に合い生き残った人々の手で防空壕の上に碑が立てられ、現在は慰霊塔公園として毎年空襲の日に慰霊祭が行われています。
住所:大村市松並2丁目