大村家の歴史
- 大村家は、いったいどこからはじまったのでしょうか?
- 大村藩主・大村家の祖先についてはいくつかの説がありますが、江戸時代に作られた大村家の系図では、藤原純友の孫の直澄を祖先としてきました。
そこでは、正暦5年(994年)、藤原直澄が、寺島に上陸して久原城に本拠をかまえ大村氏を名のり、以来14代500年近く久原城を居城とし、平時は乾馬場の大村館に居住したとされ、この間、京都大番役、鎌倉幕府の地頭をつとめ、文永の役、弘安の役の出征、南北朝時代は南朝のために働くなど、西国の武将として名をあげたと記してあります。
しかし、最近の研究では、平安時代末に中央から肥前国藤津荘(現在の佐賀県鹿島市)に移住した原氏の一族とする見解が有力になっています。
寺島(市指定史跡)
久原1丁目の西海岸にあり、古松の生えた美しい島です。ここは、近世大村家の系図で大村家の祖とされた藤原直澄が上陸したとされる島です。
大村家の系図では、直澄は天慶4年(941年)天慶の乱で討たれた藤原純友の孫で、成長後に朝廷から祖父の反逆の罪を赦されて、藤津・彼杵・高来の3郡を賜り、正暦5年(994年)にここに上陸した、としています。
周辺には、この時に船のとも綱を結んだとされる「夫婦石」や直澄が腰かけたとされる酒盛石や御成石があります。
- 住所:
- 大村市久原1丁目
久原城跡
江戸時代の大村家の記録で、大村家の祖とされた藤原直澄が、寺島上陸後に入った城とされています。
戦国時代初期の純治が寿古町の好武城を築城するまで、ここを本拠地にしていたとされています。
- 住所:
- 大村市玖島1 丁目
- アクセス:
- JR 大村駅からバスで約10分(本小路バス停下車)、徒歩約3分
- 長崎自動車道大村インターから車で約15分
大村藩の誕生
1600年、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、敵側の大名の領地を取り上げ、味方の大名に分け与えました。大村純忠の子喜前は、家康に味方したので、それまでの領地を認められ、大村藩が誕生しました。
- 藩主
- 大村家
- 家紋
- 五木瓜紋
- 居城
- 玖島城
- 石高
- 27,793石
- 村数
- 48ヶ村(1612 年段階)
- 人口
- 116,273人(1856 年頃)
- 家臣数
- 2,867名(1850 年頃)
- 菩提寺
- 本経寺(日蓮宗)
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本経寺
初代藩主大村喜前によって慶長13年(1608年) 頃に完成した日蓮宗の寺院です。現在でも本堂をはじめ江戸後期の建物が建ち、近世大名の菩提寺としての形態を良く残しています。
平成16年9月30日に文部科学省により国の史跡に指定されました。 -
大村家の家紋 豆知識
鎌倉時代のはじめ、大村家7代忠澄は、兄の有馬経澄と共に京都大番役として御所の守護に当たっていました。
たまたま京都のまちに大火があり、御所も危うくなりましたが、警固の者たちの働きによって、やっと類焼を免れることが出来ました。
この時の兄弟の働きは大変見事であったため、天皇は、両人を側近く召され、輪切りにした木瓜を与え、その功を賞讃されました。両人は直垂の袖で拝受しましたが、瓜面の跡が鮮やかに残り、 何時までも消えませんでした。
それ以来、大村家の紋は五ツ木瓜を用いることになったといわれています。
難攻不落の城 玖島城跡
慶長4年(1599年)、初代藩主大村喜前が築城してから12代藩主純熈の代(幕末) まで、270余年間大村氏の居城でした。
喜前は、秀吉の死後、天下の乱れを恐れて防備を固くするため、朝鮮の役での教訓を生かし、三方を海に囲まれた要害の地、玖島を選んで本城を築き、三城城からここに移りました。
慶長19年(1614年) 大改修を行い、最初北側にあった大手を、現在のように、南側に移しました。この大改修の設計を、築城の名人加藤清正に指導を仰いだと伝えられています。本丸には天守閣はなく、平屋の館がありました。城の石垣は、当時のまま良く残っており、特に南堀に面した石垣の美しい勾配は壮観です。
海に囲まれた玖島城には、御船蔵、新蔵波止、船役所跡など海運に関する施設が多く残っており、海城の特徴を見ることができます。
また、遠浅のため敵の兵が上陸できない上、城近くの遠浅の海の中には捨堀を設けるなどしていましたので、難攻不落の城でした。
明治17年(1884年)、本丸跡に歴代の領主・藩主を祭る大村神社が建てられ、現在では桜・花菖蒲が咲き競う大村公園として広く市民や観光客にも親しまれています。
武家屋敷通り
歴史色づく城下町
藩主の大村喜前が、慶長4年(1599年)玖島城を築いて、元の三城の城下町を移し、各地に住んでいた家臣を玖島城下に住まわせ、城下町を形成しました。
最初にできた五つの武家屋敷のある本小路・外浦小路・小姓小路・上小路・草場小路が五小路と呼ばれました。
色とりどりの海石を漆喰で固めた「五色塀」
小路のところどころに残っている色とりどりの海石をちりばめた大村地方の特徴的な塀です。
これらの武家屋敷街は今も生活の中に生きています。
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本小路
大手門に通じ、武家屋敷街の本になる通りであったため、本小路と名付けられました。藩校や会所など藩の施設が多くありました。
住所: 大村市玖島1丁目 -
上小路
元は、地名から尾ノ上小路と呼ばれましたが、後に省略して上小路と呼ばれるようになりました。家老屋敷跡など石垣が良く残る通りです。
住所: 大村市片町・玖島2丁目 -
外浦小路
最初、西彼杵半島の外海地方の武士を住まわせたので、外浦小路と呼ばれました。
後には家老などが多く住まいましたが、現在は通りそのものが無くなっています。
住所: 大村市久原1丁目 -
小姓小路
当初、殿様の側仕えをした小姓が住んだことから小姓小路と呼ばれました。石垣が最も良く残っている通りです。
住所: 大村市玖島2丁目 -
草場小路
地名をとって、草場小路と名付けられました。五色塀や旧円融寺庭園が残る通りです。 大村特有の五色塀が最も長く、石の様々な色・形を見ることが出来る見応えのある小路です。
住所: 大村市片町・玖島2丁目
武家屋敷
今も面影を残す、城下町風情
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中尾元締役旧宅
この屋敷は、文政9年(1826年)から中尾半兵衛の住まいとなりました。
半兵衛は、文化10年(1813年)9月、伊能忠敬が大村藩を測量したとき、手助けをしたといわれます。
その子の静摩は幼少の頃、大村純熈の相手をつとめ、五教館、治振軒に学び、父とともに江戸にのぼりました。その後、大村藩に帰り、五教館の舎長・祭師・訓導を務め、また脇備騎士としても仕えました。- 住所:
- 大村市玖島2丁目(現在は民家になっており公開されていません。)
- アクセス:
- JR 大村駅からバスで約10分(本小路バス停下車)、徒歩約5分
- 長崎自動車道大村インターから車で約20分
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大村藩家老稲田家屋敷跡
この屋敷は、寛延3年(1750年)に元締役の稲田利左衛門が住んで以来、明治5年(1872年)に稲田又左衛門煕孚が小迎村(西海市西彼町)の下屋敷に転居するまで122年の間、稲田氏の屋敷となりました。
その後、稲毛惣左衛門(郷村記の編者)が譲り受けましたが、火災で全焼しました。その後は朝長慎三衆議院議員が所有し、現在は別の個人宅となっていますが、建物は残っておらず、高い石垣や堂々とした門の跡が残っています。- 住所:
- 大村市玖島2丁目(現在は民家になっており公開されていません。)
- アクセス:
- JR 大村駅からバスで約10分(岩船バス停下車)、徒歩約1分
- 長崎自動車道大村インターから車で約20分
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五教館御成門(県指定史跡)
大村藩の藩校、集義館は寛文10年(1670年)、4代藩主・大村純長によって玖島城内に設けられました。集義館はその後、静寿園、五教館と名称を変え、場所も天保2年(1831年)10代藩主純昌のとき、城内から本小路(現・大村市立大村小学校)に移されました。
五教とは、「主君と家臣の間には『義』がある。親と子には『親』があり、夫婦には『別』あり、年長の者と若い者の間には『序列』がある、友人同士には『信』がある」という5つの道の教えをさします。
現在、大村小学校の敷地の一角に、藩主が来校したときにくぐった御成門が残っており、県指定史跡となっています。この門は黒門とも呼ばれ、五教館の建物のうち今も残る唯一の遺構として往時がしのばれます。
住所: 大村市玖島1丁目 -
大村藩家老浅田家屋敷跡
浅田氏は、大村家初代直澄に従い、大村に来た七士の中の筆頭といわれた朝長氏の子孫です。代々重臣を務め、中には三城七騎籠りで純忠を助けた大学純盛などもおり、純盛の子朝長久助は、文禄の役で武功抜群により、朝田と改名しました。後、浅田左門前安と名乗り、慶長4年(1599年)に乾馬場から現地へと移り住み、明治以降は岐阜医学校長の西川黙蔵氏が屋敷を譲り受けました。
- 住所:
- 大村市片町(現在は民家になっており公開されていません。)
- アクセス:
- JR 大村駅からバスで約10分(市役所前バス停下車)、徒歩約10分
- 長崎自動車道大村インターから車で約20分
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大村藩家老針尾家屋敷跡
上小路の坂を西に下った道のつき当りが、江戸時代の大村藩家老針尾氏の屋敷跡です。
針尾氏は、戦国時代まで針尾島付近の領主でしたが、平戸の松浦氏の侵略に耐えられず、純忠が領主の頃、大村氏に属し大村へ来ました。玖島城築城の時、本小路に移り住み、慶長19年(1614年)に上小路に移ってから、明治4年の廃藩置県の際、所領があった西彼杵郡尾戸村(現在の長崎市琴海)にあった下屋敷に移り住むまでの257年間、この地は針尾氏の屋敷でした。
現在、屋敷の東側に残っている家屋は、家紋入りの鬼瓦を使った入母屋瓦葺きの立派な長屋で、若党や中間など家臣の住まいとして使われていたものです。- 住所:
- 大村市玖島1丁目(現在は民家になっており公開されていません。)
- アクセス:
- JR 大村駅からバスで約10分(市役所前バス停下車)、徒歩約3分
- 長崎自動車道大村インターから車で約15分
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大村藩主大村家墓所(国指定史跡)
大村藩歴代藩主の墓碑群で、初代大村喜前から11代藩主純顕まで歴代藩主とその一族の墓があります。6mを超す巨大な墓が建ち並び、様々な様式の墓は見事な石造美術品です。キリシタン大名であった大村家が、禁教下でキリスト教を棄て仏教信仰を幕府や領民に証明するために巨大な墓を建てたと考えられます。
- 住所:
- 長崎県大村市古町1丁目64番地
- アクセス:
- 大村駅(北)バス停から古町バス停下車、徒歩6分
- JR 大村駅から徒歩20分
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義犬華丸の墓
小佐々市右衛門前親は肥前国大村藩三代目藩主大村純信の傅役でもありました。純信公が33歳の若さで江戸表で急逝したとの悲報に接し、前親は自ら守り育てた純信の死を悼み殉死しました。さらに、前親の愛犬華丸は主人の火葬の時、悲しみのあまり後を追い、火中に飛び込んで焼死しました。藩主に殉じた義臣「前親」と、主人に殉じた義犬「華丸」の死を供養するため、前親の墓碑と華丸の墓碑が建てられました。
前親や華丸の墓碑は、本経寺や大村家墓所と共に平成16年に国の史跡に指定されました。- 住所:
- 大村市古町1丁目64番地
- アクセス:
- JR 大村駅からバスで約3分(古町バス停下車)、徒歩約6分
- 長崎自動車道大村インターから車で約10分(駐車場有)