キリシタン大名 大村純忠【パンフレット】
天正遣欧少年使節をローマに向かわせ、当時世界最高の技術と知識を大村に持ち帰らせた持主。
戦国時代の大村領主。島原の有馬家から養子として大村家に迎えられ領主となった純忠は、周辺の戦国大名とせめぎ合いながら、大村湾を取り巻く領土を確立していきます。
また、貿易港として横瀬浦や福田、長崎を開港して南蛮貿易港を進める中、キリスト教に入信し日本初のキリシタン大名となりました。その後、日本初のヨーロッパ公式訪問団である“天正遣欧少年使節”をローマに派遣するなど歴史に残る多くの偉業を行いました。
坂口の館で亡くなった純忠は三城城下の宝生寺に埋葬され、改葬を経て本経寺に埋葬されたと伝えられていますが、墓の所在は不明です。
日本最初のキリシタン大名
宣教師フランシスコ・ザビエルが日本にキリスト教を伝えた12年後、大村領では、領主大村純忠によりキリスト教布教の許可が出され、また、純忠自身も領内横瀬浦でキリスト教の洗礼を受け、日本最初のキリシタン大名となりました。
洗礼名をドン・バルトロメウといい、ヨーロッパでもキリシタン大名として広く知られました。
領主の改宗により、大村領内には、キリスト教が広がっていきました。
- どうしてキリスト教徒になったの?
- 純忠自身がキリストの教えに心を打たれたこともありますが、南蛮貿易をスムーズにする狙いもあったとも言われています。
領民すべてキリシタンへ
キリシタンとなった純忠は、家臣や領民にキリスト教への改宗をすすめ、全領民がキリシタンになったとされています。宣教師フロイスによると当時の信者は6万人を超えたと記録されています。
その裏では、教会などに転用されたものを除き、ほとんどの神社仏閣が破壊され、領内から神仏への信仰は姿を消しました。
三城城に隣接していた宝生寺は教会に転用され、純忠も礼拝に通っていました。
大村純忠が居城した “三城城”
大村純忠が、永禄7年(1564年)に完成させました。子の喜前が玖島城へ移る慶長4年(1599年)まで、大村氏の居城でした。
多良山系からのびる尾根の先端を利用したこの城は、石垣がなく、堀や土塁で守られた中世の城の特徴を持っています。
❷ 三城城の中でも、特に防御の工夫を凝らした様子が、竹やぶの中に観察できます。
❸ 純忠の屋敷などがある城の中心『郷村記(ごうそんき)』に書かれている本丸と考えられます。
❹ 富丸神社本殿左手にある小山の前には、土塁(どるい)が良く残っています。途中土塁の切れ目があり、出入り口の可能性があります。
❺ 南斜面は浅い谷から穏やかに上がっています。
❻ この堀は幅5メートル以上、長さ200メートルを下らない三城城でも最大級の大空堀で、記録が伝える「千綿堀」と考えられています。
❼ この場所は❻で説明した堀だけでなく、北側に切岸を持ちます。大きな土塁も見つかりました。
南蛮貿易
南蛮貿易の輸入品は、生糸や絹織物などが中心でしたが、鉄砲などの武器や医学、天文学、音楽、美術なども伝えられ、日本の文化に大きな影響を残しました。
戦国時代、日本にポルトガル人が渡来し、南蛮貿易が始まりました。南蛮船は、はじめは平戸に入港していましたが、平戸領主松浦氏と不和になったポルトガル人は、新たな港として、大村領内の横瀬浦に目をつけました。
大村純忠は、ポルトガル人の希望を受け入れ、キリスト教布教の許可を出したため、彼らはここを港と定め、横瀬浦で南蛮貿易が始まりました。
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長崎開港
開港された横瀬浦は、武雄の後藤貴明に襲われて炎上し、わずか1 年で機能を失いました。貿易港は一旦平戸に戻りますが、ポルトガル人は、キリスト教に寛容な大村領での貿易を望み、福田に入港、さらに良港を求め、長崎を探し当てました。
元亀2年(1571年) 純忠は、長崎を港として開き、以後、南蛮貿易の拠点となりました。その後、長崎と茂木は純忠によってイエズス会へ寄進されますが、これには貿易の定着と周辺大名からの安全などのねらいがあったと言われています。 -
伝わったもの
南蛮貿易の輸入品は生糸や絹織物が中心でしたが、貿易品だけでなく、鉄砲などの武器や医学、天文学、音楽、美術などが伝えられ、日本の文化に大きな影響を残しました。
また、伝わった南蛮文化と日本の文化が合わさって南蛮漆器などの工芸品が作られ、海外に輸出されるものもありました。 -
天領長崎へ
豊臣秀吉が九州を平定すると、教会へ寄進されていた貿易港長崎は、秀吉により取り上げられてしまいます。続く徳川幕府でも長崎は幕府直轄の天領として治められるようになりました。
その後、鎖国を迎え、長崎は唯一の西洋との窓口として栄えますが、その基礎を築いたのが大村純忠による長崎開港でした。
当時の様子
南蛮屏風 所蔵元:神戸市立博物館
天正遣欧少年使節
- 天正遣欧少年使節って?
- 大村純忠らの使者として、ヨーロッパを訪問した4人の少年です。
ローマ教皇に謁見し、日本での布教活動が順調なことを伝えました。
活版印刷機・西洋楽器など、西洋の高い技術や文化を日本に持ち帰りました。
キリスト教の布教が進む中、宣教師ヴァリニャーノは、キリスト教の中心地ローマへの使節派遣を計画し、大村純忠、豊後の大友宗麟、島原の有馬晴信の名代として4人の少年を派遣しました。
これが「天正遣欧少年使節」と呼ばれるヨーロッパ訪問団であり、正使として伊東マンショ、千々石ミゲル、副使として原マルチノ、中浦ジュリアンの4人の少年が選ばれました。彼らは、ポルトガル、スペイン、そしてローマを訪れました。400年前のヨーロッパの人々は日本の少年たちの高い教養と知識に驚きました。
天正遣欧少年使節の少年たち
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正使 伊東マンショ
日向国( 宮崎) 都於郡出身。大友宗麟の遠戚にあたる。4人の少年の中で最年長。
帰国後、1591年天草の修練院でイエズス会に入会。1601年マカオで神学を学び、1608年長崎で司祭となる。
布教活動の長旅で体を壊し、1612年、43才で長崎にて病死する。 -
正使 千々石ミゲル
有馬領千々石出身。釜蓋城主千々石直員の子。有馬晴信のいとこ、大村純忠の甥にあたる。
帰国後、1591年天草の修練院でイエズス会に入会。1601年頃、イエズス会を脱会。清左衛門と名乗り、大村喜前に仕える。
1633年死去。 -
副使 原マルチノ
大村領波佐見出身。原中務 大輔純一の子。4人の少年の中で最年少。
帰国後、1591年天草の修練院でイエズス会に入会。1608年長崎で司祭となる。布教活動を行うが、徳川幕府の禁教令によりマカオに脱出。
1629年マカオにて病死する。 -
副使 中浦ジュリアン
大村領中浦出身(現在の西海市)。中浦領主中浦ジンクロウの子。
帰国後、1591年天草の修練院でイエズス会に入会。1601年マカオで神学を学び、1604年長崎に戻る。1608年、司祭となる。
徳川幕府の禁教令後も日本に残り、布教活動を続け、1633年、62才で長崎西坂にて殉教する。
天正10年(1582年)一行は長崎港を出港し、マカオ、マラッカ、インド、喜望峰をまわり2年半かかってヨーロッパに渡り、ローマ教皇と謁見しました。
少年たちが帰国をした時期は、豊臣秀吉がキリシタンの入国を禁止していたため、少年たちはインド副王の使節として帰国を果たしました。出発から8年5か月が過ぎており、純忠も宗麟もすでに他界していました。
少年達は、活字印刷機械などヨーロッパの進んだ技術や知識を持ち帰りましたが、キリスト教が禁止されていた日本では十分に活動を行えませんでした。
キリシタン禁教
純忠の死後、豊臣秀吉により伴天連追放令が出され、続く徳川幕府が全国禁教令(1614年)を発布し、キリスト教の信仰が禁止されます。
郡崩れ(潜伏キリシタン大発覚事件)
禁教下においても、キリスト教の信仰を続けていた人々がおり、明暦3年(1657年)「郡崩れ」と呼ばれる潜伏キリシタン大発覚事件が起き、603人が捕まり、406人が処刑されました。
うち大村では131人、長崎118人、佐賀37人、平戸64人、島原56人とそれぞれの地で処刑されました。市内には、この「郡崩れ」やキリスト教に関する史跡が多く残されています。
※捕らえられた人数等は「九葉実録」巻1を基にしています。
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仏の谷
萱瀬ダム下の山中の急斜面を登って行くと岩穴があり、ここが「郡崩れ」の発端となったキリシタンの絵が隠されていた場所と言われています。
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妻子別れの石
受刑者たちは、ここで妻子と水盃を交して最後の別れを告げ、殉教地(斬罪所)へひかれていきました。
現在別れの石数個が残っており、俗に「涙石」とも呼ばれ今でも苔が生えないと伝えられています。 -
放虎原殉教地(斬罪所跡)
萱万治元年(1658年)131人が一斉に処刑された放虎原殉教地には、銅板のレリーフをはめ込んだ大きな殉教顕彰碑が建てられています。
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獄門所跡
「郡崩れ」で処刑された131人の首は、塩漬けにされ、見せしめのために人通りの多かった長崎街道のこの場所で20日間さらし首にされました。
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首塚跡
胴塚から北方約500m離れた榎の根元に殉教者131人の首を埋めたと伝えられています。
首と胴を別々に埋めたのは、キリシタンの妖術でつながって、生き返ることを恐れたためといわれます。 -
胴塚跡
桜馬場の国道沿いの西側に胴塚跡があり、131人の胴体は2カ所に穴を掘り埋めたと伝えられています。
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鈴田牢跡
元和3年(1617年) から同8年まで、外国人宣教師ら30数名を閉じ込めた牢屋の跡です。
周囲も天井も竹の柱で囲まれた鳥籠のような部屋で、カルロ・スピノラ神父が残した記録によると奥行6.6m、間口4.6m、横になることはもちろん、身動きさえ自由にできなかったと伝えられています。 -
田下のキリシタン様式墓碑(市指定史跡)
田下の入口にあり、承応2年(1653年)建立の板状伏碑の墓碑が2基見られ、仏教の戒名を1基は本体に、1基は側塔に刻む特徴をもつ珍しいものです。
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大村今富のキリシタン墓碑(県指定史跡)
戦国末期における大村の重臣、一瀬越智相模栄正の墓と言われる。
キリシタン墓碑としてはわが国でも古い頃のもので、またかまぼこ型を起立させた墓碑は全国でも珍しいといわれています。 -
大村出土のメダリオン「無原罪の聖母」(県指定有形文化財)
太陽を背に頭上に7星をめぐらし、弦月を踏んで立つ「無原罪の聖母」のメダリオン(大型メダル)です。
寛永16年(1639年)の墓碑銘の大村家家老宇多氏の墓から出土したもので、スペイン王カルロス一世の代(1516年~1556年)にマドリッドの王立造幣局で製造されたと言われています。 -
大村牢跡( 本小路牢)
慶安元年(1648年)本小路につくられました。俗にこの牢を公儀牢と呼んで、唐人牢を兼ねキリシタン囚人や、特別に幕府の命で捕まった罪人を入牢させていました。
万治年間(1658~61年)、袋小路の牢が取壊しになったあと、一般の罪人もこの牢に収容しました。 -
大村市原口郷出土のキリシタン墓碑(県指定有形文化財)
上部に花十字、下部にはアルファベットで(BASTIAN・バスチャン)(FIOBV・ヒョウブ)の刻印がある板碑式墓碑で、このように洗礼名と俗名を二段に記した墓碑は他に例を見ません。
鬼橋町から出土したもので安土桃山時代~江戸初期ごろの相当な地位にあった人物の墓と推察されます。 -
宝生寺の教会跡
永禄11年(1568年)大村純忠が建立した領内で最も大きな教会があった所で、純忠の遺体は最初ここに葬られました。
戦前まで、泣きびす山という塚があって、殿様の墓とのいい伝えもありました。