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歴史


林田刃物製作所

大村公園(玖島城跡)

仏の谷(ほとけのたに)

 明暦3年(1657年)、潜伏キリシタンが発覚した大事件「郡崩れ(こおりくずれ)」の発端となった場所です。当時、日本では徳川幕府がキリスト教の信仰を禁止し、厳しい弾圧を行い、キリシタンはいなくなったと思われていましたが、山道の奥にある「仏の谷」では、熱心なキリシタンが絵像をまつり、ひっそりとお祈りしていました。ある時、「天草四郎の再来と言われるような少年が居り、萱瀬村の久良原の岩穴に隠しているキリシタンの絵を取出し、奇妙な術法を説いている。」と郡村に住む百姓が外部に漏らしたことから、潜伏キリシタン608人が捕われ、このうち411人が処刑される大事件に発展しました。

妻子別れの石(さいしわかれのいし)

 この場所は、江戸時代の大村処刑場(斬罪所)の入口に当たり、明暦3年(1657年)の潜伏キリシタン大発覚事件である「郡崩れ」に関わる史跡です。地面に半分埋まっている丸い石がこれに当たります。
 大村で処刑されることとなった131人は、大村牢から200人の武士の厳しい警護を受けて、斬罪所に連行されました。この信者たちが、家族と最後の別れを惜しみ、水盃を交わした場所がここであったといわれています。言い伝えによると、この石はとめどなく流れた悲しみの涙で濡れたので、別名「涙石」と呼ばれ、苔が生えないといわれています。
斬罪所はここから800mあまり北にあり、昔はそこまで細い道が真直ぐに続いていたといわれています。

寺島(大河ドラマロケ地)

大村家史料によると、大村市の祖先と伝わる藤原直澄が初めて大村に上陸した地が「寺島」です。
古松の美しい「寺島」には、船のとも綱を結んだという石が残っています。
また、大河ドラマ「龍馬伝」のロケ地にもなりました。

日本最初のキリシタン大名

 戦国時代、純忠は島原の有馬家から養子として大村家に迎えられ、大村家を継ぎ領主となりました。
周辺の戦国大名である佐賀の龍造寺氏、平戸の松浦氏、武雄の後藤氏などと争い、大村湾を取り巻く領土を確立していきます。
 特に後藤貴明は、大村家に生まれながら、純忠のために後藤家に養子に出されたため、終生、純忠に対して敵意を持ちました。
 純忠は、貿易港として横瀬浦、福田、そして長崎を開港して南蛮貿易を行い、また、キリスト教を受け入れ、日本初のキリシタン大名となり、日本初のヨーロッパ公式訪問団である天正遣欧少年使節派遣など歴史に残る多くの事業を行いました。
 キリシタンとなった純忠は、家臣領民に対しキリスト教への改宗をすすめ、領内では、キリシタンにより神社仏閣が破壊され、キリスト教一色になりました。居城三城城下にあった宝生寺は教会に転用され、南蛮貿易港であった長崎、茂木を教会に寄進するなど、純忠は、キリスト教との関係を深めていきました。
 宣教師フロイスによると当時の信者は6万人を越えたと記録されています。
 純忠は萱瀬の坂口館で亡くなり、三城城下の宝生寺に埋葬されましたが、その後改葬され、本経寺に埋葬されたと伝えられますが、墓は不明となっています。

大村純忠史跡公園

 大村純忠終焉の居館跡を中心とした歴史公園。泉水の庭園跡が残され、キリシタンや南蛮貿易と関わった大村純忠について知ることができます。
 荒瀬町大門にあります。時の重臣庄頼甫(しょうよりすけ)の屋敷でしたが、のち、龍造寺隆信の圧迫によって領主の座を退いた18代大村純忠の晩年の隠居所となりました。
 純忠は、ここでひたすらキリシタンの信仰に明けくれる余生をおくっていましたが、天正15年(1587年)、波乱に富む55年の生涯を閉じました。

南蛮貿易と長崎開港

 戦国時代、日本へ南蛮人(ポルトガル人)が渡航し、南蛮貿易が始まりました。南蛮船は、最初、平戸に渡航していましたが、平戸領主松浦氏と不和になったポルトガル人は、新たな港を探し、大村領内の横瀬浦に目をつけました。領主大村純忠は、ポルトガル人の希望を受け入れ、キリスト教布教の許可を出したため、彼らはここを港と定め、1562年横瀬浦で南蛮貿易が始まりました。
 しかし、開港された横瀬浦は、武雄の後藤貴明と反純忠派の家臣に襲われ炎上、わずか1年で役目を終えてしまいます。
 ポルトガル人は、新たな港を探し、キリスト教に寛容な大村領で貿易を望み、福田に来航、さらに良港を求め、長崎を探し当てました。
 元亀2年(1571年)純忠は、長崎を港として開き、以後、南蛮貿易の拠点となりました。その後、長崎と茂木は純忠によって教会(イエズス会)へ寄進されますが、これには貿易の定着と領内の安全を守るねらいがあったといわれています。
 南蛮貿易の輸入品は、生糸や絹織物などが中心でしたが、貿易だけではなく、鉄砲などの武器や医学、天文学、音楽、美術なども伝えられ、日本の文化に大きな影響を残しました。
 また、伝わった南蛮文化と日本の文化が合わさって南蛮漆器などの工芸品が作られ、海外に輸出されるものもありました。
 豊臣秀吉が九州を平定すると、教会へ寄進されていた貿易港長崎は、秀吉に取り上げられてしまいます。続く徳川幕府でも長崎は幕府直轄の天領として治められるようになり、大村領から離れていきました。その後、鎖国を迎え、長崎は唯一西洋との窓口として栄えますが、その基礎を築いたのが大村純忠による長崎開港でした。

放虎原殉教地(斬罪所跡)

 明暦3年(1657年)、潜伏キリシタンが発覚した事件「郡崩れ」に関する場所です。608人もの人々が捕まり、キリシタン弾圧史上、まれにみる大事件となりました。あまりの逮捕者の多さに大村藩だけでは対応できず、周辺の藩にも分散して預けられ、取り調べられました。逮捕者のうち411人が打ち首となり、そのうち131人が放虎原殉教地で処刑されました。   
 この事件をきっかけに大村藩では更に厳しくキリスト教禁教政策が行われていくこととなります。処刑が行われた場所は正確には分かりませんが、信者の方々によって、この場所に殉教の顕彰碑が建てられています。

胴塚跡

 明暦3年(1657年)、潜伏キリシタンが発覚した事件「郡崩れ」に関する場所です。608人のキリスト教徒が捕まり、取り調べの結果、411名が打ち首になりました。そのうち放虎原殉教地で処刑された131人の首は塩漬けにされ、人通りの多かった長崎街道沿いの獄門所に20日間さらされました。
 当時、キリスト教の信者は打ち首にしてもキリシタンの妖術で首と胴がつながって生き返ると考えられていたため、首と胴は別々の場所に埋められ、首塚・胴塚として伝えられています。
 胴塚は、本来この場所ではなく、国道沿いのやや北側にあったと伝えられています。今は、聖堂の祈りの像が建っています。

首塚跡

 明暦3年(1657年)、潜伏キリシタンが発覚した事件「郡崩れ」に関する場所です。608人のキリスト教徒が捕まり、取り調べの結果、411名が打ち首になりました。そのうち放虎原殉教地で処刑された131人の首は塩漬けにされ、人通りの多かった長崎街道沿いの獄門所に20日間さらされました。
 当時、キリスト教の信者は打ち首にしてもキリシタンの妖術で首と胴がつながって生き返ると考えられていたため、首と胴は別々の場所に埋められ、首塚・胴塚として伝えられています。
 胴塚より北方約500m離れた榎の根元に首を埋めたと伝えられており、今は、立派な殉教顕彰碑が建てられています。

獄門所跡

 明暦3年(1657年)、潜伏キリシタンが発覚した大事件「郡崩れ」に関する場所です。608人のキリスト教徒が捕まり、取り調べの結果、411名が打ち首になりました。そのうち放虎原殉教地で処刑された131人の首は塩漬けにされ、見せしめとして当時人通りの多かった「長崎街道」沿いのこの場所で20日間さらし首にされました。
 今は、白亜の無原罪の聖母像が建てられ、遠い昔の殉教者たちの霊をやさしく慰めています。

鈴田牢跡

 この牢には、元和3年(1617年)7月から元和8年(1622年)9月までの5年間、長崎奉行所に捕えられた宣教師や信者35人が閉じ込められました。宣教師が残した記録によると非常に狭い間隔の柱で囲まれた鳥かごのような牢屋で、奥行き6.6m、間口4.6mという非常に狭い造りでした。この空間に多いときは33人もの人が入っていました。横になることはもちろん身動きさえ自由にできなかったといわれています。牢屋の周囲には、二重に柵が設けられ、扉にも二重の鍵がかけられていたということです。
 この牢に閉じ込められた人々のうち、2名は牢内で亡くなり、スピノラ神父ら25名は長崎の西坂で殉教し、元和の大殉教と呼ばれています。また、フランコ神父ら8名は大村の放虎原殉教地で殉教しました。

田下のキリシタン様式墓碑 市指定史跡

 国道444号線沿いの田下(たじも)の入口に、承応2年(1653年)に建てられた板状扁平形の墓碑が2基あります。これは、幕府のキリシタン禁教後であり、潜伏キリシタンの大発覚事件となって大村藩を揺り動かした「郡崩れ」直前という厳しい禁教の時代に建てられた大変貴重なものです。
 この墓碑の特徴は、キリシタン様式の墓碑であるにも関わらず仏教の戒名を刻んであることです。1基は側面に、もう1基は付属塔と思われるものに刻んであり、日本でも大変珍しいものです。
 大村藩では、1657年の「郡崩れ」以降、キリシタンの捜索も一層厳しくなり、残っていたキリシタンの墓なども破壊されたようです。この墓はそうした取り締まりから逃れるためにキリシタン様式の部分を土中に埋め、仏教の戒名を刻むなど仏教様式に改変したようです。
 長い間、地中に眠っていましたが、地表面の流出により再び隠されていた部分が現れてきました。他の一部の墓碑とともに大村の禁教時代をしのばせる貴重なものです。

今富のキリシタン墓碑 県指定有形文化財

 この墓碑は、半円柱型のキリシタン墓碑で、墓石の上部、本来なら伏碑にした場合、正面にあたるところに、「台付干十字紋」を刻んだ典型的なキリシタン墓碑です。現在は正面を向いている、かつての墓碑の底面には「天正四年丙子十一月十一日/不染院水心日栄霊/一瀬治部太輔」と刻んであります。ここから、墓の主は、日本初のキリシタン大名大村純忠とともに横瀬浦で洗礼を受けた一瀬栄正と考えられてきました。
 ところが、近年の調査で「干十字紋」の横に「慶長十九年」(1614年)の文字が発見されたことから、この墓は、慶長19年に一瀬栄正ではない別のキリシタンのために建てられたと考えられます。
 その後、キリシタン禁教時代となり、大村藩内ではキリシタン墓地の探索と破壊が行われ、取り締まりが厳しくなったため、墓碑を縦に起こし、仏教の戒名を記し、仏式墓碑に改造したものと考えられています。墓の右には手水鉢が置かれていますが、これも元は同様のキリシタン墓碑であったものを転用したものです。
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